銀月
2010-05-13


「何だ!?」
 ガサゴソと茂みが揺れる音に、とっさに俺は近くの納屋の影に隠れる。息を潜めて様子を伺っていると、茂みの中から黒い物体がぬうっと現れた。
「っ!」
 それは熊だった。体長一・五メートルはあろうかというツキノワグマ。何かを探すように農道をうろうろし始めた。
(神様お願い! 頼むからこっちに来ないでくれ!)
 納屋の裏に隠れながら、俺の心蔵はバクバク鳴っていた。野生の熊を見るのは初めてだ。しかも俺が持つ熊というイメージよりもはるかに大きい。もしあれが襲い掛かってきたら、無事で済むとはとても思えない。
 三分くらいの時間が三十分に感じる。何も起こらないことに痺れを切らした俺は、納屋の影からそっと様子を伺う。熊はまだ農道をウロウロとしていた。幸いこちらには気付いていない。運良くこちらは夕陽を背にしており、風向きも風下側だった。しかし農道しか逃げ道がない状況では逃げ去ることは不可能だ。しばらくこの場所に隠れ続けるしか方法はない。
 そのような状況を認識すると、少しだけ熊を観察する余裕が生まれた。その熊は少しくたびれた感じのする熊だった。歩みも精彩を欠いている。きっと歳をとった熊なのだろう。そして特徴的だったのが前足の付け根付近にある大きな傷だ。三日月のような形で毛が生えていないところがあり、夕陽が当たって銀色に輝いている。熊は探し物でもするようにしばらく農道をウロウロした後、高速道路の方に向かって歩いて行った。これはチャンスと、俺は農道を夕陽の方角へ一目散に走って逃げた。

「ばあちゃん、く、熊だ、熊が出たよ!」
 俺は祖母の家に慌てて駆け込んだ。ゴールデンウィークを利用して俺は一人で遊びに来ていたのだ。
「それは本当か皐君! どこに出たんだ?」
 居間から伯父さん顔を出す。
「ここから農道を五百メートルほど東に行ったところ。納屋がある辺りだよ」
 すると伯父さんは、すぐに何処かに電話をかけ始めた。
「すまない、皐君。雨戸を閉めてもらえないか」
 電話の相手が出るまでの間、伯父さんが俺に声をかける。俺は縁側に行き雨戸を閉め始めた。すでに宵闇が集落を包み始めていた。
「それでどんな熊じゃった?」
 いつの間にか俺のすぐ後ろにばあちゃんが居た。いつもの優しい口調とは異なる言葉の鋭さに、俺はドキリとする。
「大きかったよ。一・五メールくらいはあったかも。あと前足の付け根に大きな傷があった」
「そうか、やはり銀月じゃな。もうそういう時期になったんか……」
 そう言いながらばあちゃんは仏壇の方へ向かって歩く。そこにはじいちゃんと、そして俺の母の写真が飾られていた。

 それはちょうど二十年前。高速道路が開通して交通の便が良くなったこともあり、母は故郷分娩を行うためこの家、つまり実家を訪れていた。しかし散歩中に運悪く熊に襲われ、俺を出産した直後に亡くなった。熊の三日月状の傷――「銀月」の名の由来となった傷であるが、その時じいちゃんが放った猟銃によるものだという。

「傷が痒み出したと思ったら、またこの季節が来たんじゃの……」
 そう言ってばあちゃんは仏壇の前に正座し、鎖骨の辺りをボリボリと掻きだした。上から見て初めて気付いたが、ばあちゃんの左の鎖骨から肩にかけて大きな傷があった。そういえば子供の頃に一緒にお風呂に入った時、左肩にタトゥーのようなものを見た記憶がある。それがこの傷跡だったのだ。
「ばあちゃん、その傷は……?」
「これはの、有希子を守ろうとした時にできた傷じゃ」
 有希子とは俺の母の名だ。身重の母が銀月に襲われた時、母を守ろうとしてばあちゃんも引っ掻かれたという。じいちゃんが来るのが遅ければ、ばあちゃんも、いや俺だってこの世にいたかどうかわからない。
「俺、母さんの仇を取る」
「やめろ」
 それはいつもの優しいばあちゃんの声ではなかった。
「でも……」
「やめてくれ。ワシはお前まで失いとうない」

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