彼女とマロンとスクワレル
2015-05-21


* ツーンとしたあの香りが苦手な方はご注意下さい。


「初めまして、神田幹大(かんだ かんた)といいます」
 梅雨はまだ始まらない晴天続きの六月一日。
 衣替え初日というこの日に、俺は生まれた街から遠く離れた野々原高校二年三組の教壇に立っている。
 初めて顔を合わせるクラスメートの、真っ白なワイシャツとブラウスの反射光にさらされながら自己紹介。つまり転入生ってやつ。
 遠く離れたと言っても電車で一時間半くらいなんだけど、引っ越しというものを初めて体験した俺には遥か地球の果てに来たような感覚だ。
 俺の簡素な挨拶が終わると、担任は俺の肩に手を置いた。
「神田は今日からお前たちの仲間になる。仲良くしてやってくれ」
 やっぱそれ言っちゃう?
 ドラマにそっくりそのまま出てくるような担任の言葉に、俺の背中はむず痒くなった。
 じっと俺の様子を凝視するクラスメートの視線が、チクチクと体に痛い。まあ、急に友達になってくれなくたって、ネットには仲間がいるからそれで十分なんだけどさ。
「神田の席は……、そうだな、あそこに座ってくれ」
 担任は、真ん中の列の一番後ろの席を指差した。
 ――ここでのスタートはあの席か。
 教室の最後列にポツリとたたずむ誰も座っていない席。
 どうか無難な高校生活が送れますようにと、俺は皆の視線を避けながらそそくさと指定された席に向かう。椅子に腰かけると、間髪を入れずに前の席の男子生徒が振り返った。
「オレ、佐々木悟(ささき さとる)。よろしくな、カンカン」
 えっ!? カンカンって誰のことだよ?
 困惑しながらも、俺は小声で「よろしく」と返す。屈託のない悟の笑顔。いきなり勝手なニックネーム(本人未公認)で呼ばれるのはちょっと気に入らないけど、悪い奴ではなさそうだ。
 悟が前に向き直ると、俺は小さな背もたれに体を預けながらほっと一息ついた。意識しないうちにかなり緊張していたようだ。
 こうして俺の、野々原高校での田舎生活が始まった。


 * * *


 最初の授業は数学だった。
 サイン、コサイン、タンジェント……。三角関数の呪文が教室に鳴り響く。
 というか、まだそんなところをやってんのかよ。
 どうやらこの高校は、前の学校よりも授業の進行が遅いらしい。退屈になった俺は、何か面白いものはないかと教室を見回した。
 黒板、時計、放送用のスピーカー。
 教室というものはどこも変わらない。が、一つだけ前の学校と大きく違っているところがあった。
「……何も……見えねえ」
 頬杖をついて窓の方を向いた俺は、驚きの言葉を口にする。
 ――青い空と白い雲。
 それだけしか見えない。
 いや、クラスメートの合間から遠くの山々が見えるような気もする。おそらくもっと窓に近い席なら、校庭とか緑の木々とかが見えるのだろう。
 ここは昭和に建てられたと思われる古びた鉄筋コンクリート校舎の三階。前の学校なら、周囲に乱立するビルが窓の景色を占領しているところだ。
「とんでもない所に来ちまったなあ……」
 本当に田舎なんだ。
 前の街から電車でたった一時間半なのに。
 その時だった。
 俺の鼻が異常を感知したのは。

「ど、どうして……? この匂いが教室で!?」

 ツーンと刺激のある匂い。
 教室では決して嗅いではいけない、あの白い液体の匂い。
 まあ、ずばり言うとセイシの匂いだ。セイシとは、製紙でも制止でも生死でも製糸でも静止でも整肢でも正史でもなく、あのセイシだ。
 男にしか生産できないものだから、発生源は当然男子生徒ということになる。
(いやいや俺は、昨晩は緊張していて、そんな余裕なかったし……)
 必死に自己弁護をしながら、キョロキョロと辺りを見回す。
 両隣に座っているのは女子生徒。だからそこは発生源ではない。

続きを読む

[投稿作品]
[ラ研企画]

コメント(全0件)
コメントをする


記事を書く
 powered by ASAHIネット