「あれマダムじゃない?レストラン青山の」
満員バスの中で、よう子が僕の脇腹をつつく。
「似てるけど…、こんなバスに乗るか?高級フランス料理店のマダムが」
バスはサッカースタジアムに向かう人達で一杯だ。
「でも、車で来た人って全員このバスに乗るんでしょ?」
そうだった。どんな高級車で来ても、駐車場からこのバスに乗る羽目になる。
普段は決して交わることのないセレブと庶民。
プチローマの休日のような再会に、心がざわめく。
「あのう…、失礼ですが…」
ご婦人の席まで移動し、僕は意を決して声をかけた。
やはりマダムだった。
「結婚式ではお世話になりました!」
僕とよう子の声がそろった。
僕達は青山で結婚式を挙げた。
マダムが新しく建てた、結婚式用の別館で。
当時、レストラン業界はブライダルブームだった。
しかしブームが去った後、その別館は無くなった。
偶然青山に寄った僕は、跡地を見て呆然とした。
店の都合で、自分達の人生が弄ばれたような気がした。
そのことをマダムに問いてみたい。
世間話をしているうちに、僕はその衝動を抑えきれなくなった。
「私も残念だったの。いろいろあってね…」
悲しそうにマダムは俯いた。
これ以上聞いてはいけないと、消えた笑顔が語っていた。
結婚式の当日――
「良かったですね、いい天気になって」
そう言いながら、マダムは中庭の屋根を開けてくれた。
見上げると、東京とは思えない青空が広がっている。
よう子はその日差しの中を、今は亡き義父に連れられて僕の元へやって来た。
白く、まぶしい、そんな記憶だ。
バスがスタジアムのゲートをくぐる。
プチローマの休日も、あと少しで終わりだ。
僕は何をこだわっているのだろう。
マダムは僕達に、素敵な想い出をくれたじゃないか。
「子供達が大きくなったら、みんなで本館に食べに行きます」
そう宣言すると、マダムは顔を上げた。
「お待ちしています」
スタジアムの歓声が突然止んだような、そんな気がした。
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