2010-07-01


香苗には離婚歴がある。前の夫の暴力が原因だ。それでも離婚するまでは、香苗は必死に努力しようとした。夫に嫌われないように、夫に尽くすように心がけた。逆にそのことが香苗を追い詰め、最後は心が折れた。男性恐怖症に陥った香苗を救ったのは純平だった。
「どうしたの、純平?」
 香苗の声で純平は我に返る。
「そうか、『二人』という漢字を組み合わせて『天』か。よく考えたな」
 慌ててフォローしながら、どこか上の空であることを気付かれていないか純平は心配する。
「へへへ。てんちゃ〜ん、パパもいい名前って言ってくれまちたよ〜」
 お腹をさすりながら素直に喜ぶ香苗。ほっとした純平は、少し後ろめたい気持ちを残して病室を後にした。
 病院を出た純平の髪にそよぐ夜風は心地よかったが、足取りは重かった。自宅に着くと、誰も居ないマンションの部屋は暗く静まり返っている。香苗と結婚してからこんなことは初めてだった。一人でご飯を食べて、一人で風呂に入って、一人で寝る。布団の中で考えるのは、『天』の名前の由来だった。
「『二人』の漢字を組み合わせると……、か……」
 純平の頭の中には、どうしても『天』という文字が浮かんでこなかった。その代わりに現れるのは『夫』の文字だ。これは、『天』という名前を心が受け入れていないからなのだからだろうか。しかしそれはなぜだろう……
 考えた末に純平が到達したのは、香苗が選択した癌治療の方針に対する不満だった。香苗には癌治療に専念してほしい。しかしそれには堕胎手術が必要だった。消えてしまうかもしれない『天』という小さな命。その名前に愛着を持たない方が悲しみが少なくて済むと、知らず知らずに心にブレーキをかけていた。

 香苗が退院して二週間後。癌手術で切除した部分の検査結果が出た。
 それは思わしいものではなかった。幸い、リンパ節などへの転移は見つからなかったが、予想以上に癌の広がりが大きかったという。取り残した癌細胞があるかもしれないからすぐにでもホルモン療法を受けた方が良い、と主治医は勧めた。しかしその場合、お腹の子供は諦めなくてはならない。もう妊娠してから五ヶ月になる。堕胎手術を行うにはギリギリのタイミングだ。
「絶対イヤ。てんちゃんは誰にも殺させない」
 香苗は聞く耳を持たず、自宅に戻った二人は口論となった。
「だって、病院の先生もすぐにホルモン療法を行った方がいいと言っていただろ?」
「この子を産んで、それから左の乳房でおっぱいをあげて、その後でやる」
 ホルモン療法とは、女性ホルモンを絶つ癌の治療方法だ。一般に乳癌の多くは、女性ホルモンを餌にして成長する。香苗の場合もこのようなタイプの癌だった。ホルモン療法では薬で女性ホルモンの分泌を抑え、癌細胞を兵糧攻めにするのだ。
 一方、出産は女性ホルモンを大量に分泌する行為である。つまり出産を優先させるということは、その間はホルモン療法ができず癌治療が遅れることになる。もし手術で取り残した癌細胞があった場合、出産の間に癌は香苗の体を蝕んでいくかもしれない。
「聞き分けの無い奴だな。お前の体のことを大切に思うから言ってるんだろ。子供は癌治療の後でもいいじゃないか。それに、てんちゃん、てんちゃんと言うのも止めろ。『二人』という漢字を組み合わせたら『天』じゃなくて『夫』じゃないかよ!」
 純平が声を荒げると、香苗は身をすくめた。ダメだ、これでは前の夫と同じだ。
「ゴメンね、ゴメンね……」
 ついに香苗は泣き出してしまった。

 しばらくして香苗が落ち着くと、彼女はぽつりぽつりと胸の内を話し始めた。
「私ね、純平に救われたの。だから感謝してる」
 純平が香苗と知り合った頃、彼女は男性の顔をまともに見れない状態だった。
「あなたは私の話を一つ一つ聞いてくれたよね。そしてちゃんと目を見てくれた」

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