2010-07-01


「ねえ、『天』にしようよ、子供の名前……」
 病室を去ろうとした純平を、妻の香苗が呼び止めた。純平が振り返ると、ベッドから身を起こして香苗は少し寂しそうにしている。
「『天』って、男でも女でもか?」
「そうよ、女の子でも『天』。てんちゃんって可愛いじゃない、音の響きが」
「それで、名前の意味は?」
「へへへ。内緒」
「内緒ってお前……」
「明日の手術がうまくいったら教えてあげる」
「わかったよ。『天』か……、確かに響きは悪くないな」
「ねっ、そうでしょ」
 香苗がやっと笑ってくれた。手術が相当不安だったのだろう。それもそのはず、明日は癌の手術なのだから。
 香苗の妊娠が判明したのは、ちょうど四ヶ月前だった。そしてその検査の際に、右の乳房にしこりがあることがわかった。検査の結果、初期の乳癌だった。
 出産と乳癌――どちらへの対応を優先するかと聞かれた時、香苗は迷わず出産を選択した。
『せっかく私達に授かった命なんだから、優先させるのは当たり前じゃない』
 彼女の頭の中には、子供を堕胎して癌治療を優先させるという選択肢は無かった。
 しかし、癌を全く放置するわけにもいかない。お腹の子供の状態が落ち着いてきたら、右の乳房切除の手術を受けることになった。それが今回の手術である。
 乳房切除手術は全身麻酔を伴う。麻酔と言っても百パーセント安全というわけではない。十万件に一人くらいは死亡例があるという。それにお腹の子供にも全く影響が無いとは言い切れないのだ。
 だから香苗には拠り所が必要だった。それがお腹の子供――いわば、一緒に手術を乗り越える戦友だ。しかしその戦友にはまだ名前が無い。これでは呼びかけることも、励まし合うこともできない。香苗には、早急に子供の名前が必要だった。
「てんちゃ〜ん、ママは明日の手術、頑張りまちゅからね、あなたも頑張ってくだちゃいね……」
 お腹の子供に呼びかける香苗。元気が出てきたようでなによりだ。
「じゃあ、明日頑張れよ」
「うん、わかった。また明日ね……」
 もうすぐ消灯時間だ。手を振る香苗に安心した純平は、一人病室を後にした。

 翌日。手術は無事に成功した。お腹の子供にも問題は無いという。
「てんちゃーん、てんちゃーん……」
 手術室から病室に戻った香苗は、麻酔で朦朧とする意識の中、子供の名前を呟き続けている。純平は香苗の手を握り締めながら、本当は自分の名前を呼んでほしかったと小さな命に嫉妬を感じていた。
 夕方になると、香苗への麻酔の影響はほとんど無くなっていた。そこで純平は、気になっていたことを香苗に聞いてみた。
「それで、『天』の名前の意味なんだが……」
「教えてほしい?」
 ベッドに横になったまま純平の目を見つめる香苗。苦行を終えた後の僧侶のようなさっぱりとした顔も、また素敵だった。
「別にいいけど……」
 純平が拗ねると、香苗が無邪気に笑う。
「冗談よ、冗談。名前の由来はね、私達二人で頑張って授かった命だから『天』なの」
 香苗は顔を少し赤くしながら言葉を続ける。
「ほら、『天』という字は、『二人』という漢字を組み合わせるとできるでしょ……」
 いや、『二』と『人』を組み合わせたら『夫』なんじゃないか? と突っ込もうとして、純平は口を閉じた。癌の告知を受けてから沈みがちだった香苗が、こんなにも明るくなった。手術が成功したこともあると思うが、子供に『天』という名前を付けたことが大きな転機になっている。そんな香苗の心の拠り所を壊したくなかった。
 それに、純平には『二人』そして『夫』という文字に心当たりがあった。二人目の夫――それは純平自身の事だった。

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