2015-11-07
しかし満室というには宿には人が居る感じは無いし、さっきの露天風呂も誰も入っていなかった。念のため俺はおじいさんに訊いてみる。
「満室ってことですか?」
「いえ、そうではないんです。今夜はどなたも泊まれないんです」
誰も泊まれないって?
もしそうなら宿の電気は消えてるはずじゃないか。でも建物には煌々と灯りが点けられているし、露天風呂だってきちんとお湯が張ってあった。
ということは……、もしかしてVIPがお忍びで来ているとか? それだったら邪魔はしないから、せめて宿泊だけでもさせてほしい。
「そこをなんとか泊めてほしいんです。山で鉄砲水に遭って、びしゃびしゃになって途方に暮れているんです」
俺がそう言うと、おじいさんの眉がピクリと動く。
「鉄砲水……ですか?」
「はい、そうです」
俺がそう答えると、おじいさんの態度が豹変した。突然俺に対して物腰が柔らかくなったのだ。
「それは失礼いたしました。どうぞ、こちらに」
「ありがとうございます!」
災害に遭った人を追い返すようなことは、さすがに非人道的と思ったのだろう。
俺はほっとしながらびしょ濡れになった靴と靴下を脱ぎ、スリッパを履いておじいさんの後について廊下を歩く。案内された部屋は、八畳ほどの古風な和室だった。
「お疲れでしょう。どうぞお風呂に入って下さい。浴衣はここにあります」
ああ、早くお風呂に入りたい!
おじいさんが部屋から退出すると、俺は浴衣に着替えて露天風呂に駆け込んだ。
「ああ、いい湯だった」
地獄で仏に会うとは、こんなことを言うのだろう。
すっかり生き返った俺が部屋に戻ると、温かい食事が並べられていた。
「こんな老いぼれが作る料理で、大変申し訳ありませんが……」
いやいや、これは本当に有り難い。
ご飯に味噌汁、そして焼き魚に漬物。メニューはシンプルだったが、腹ペコだった俺にとっては豪華なディナーだ。夢中で箸を進めながらも、先ほどのおじいさんの言葉が心に引っかかる。
――こんな老いぼれが作る料理で。
温泉宿だったら、板前さんとかが住み込みで働いているのではないのだろうか? VIPがお忍びで来ているのなら、料理は重要なポイントで板前さんは欠かせないはずだ。
ということは、本当に誰も泊めていない……とか?
気になった俺は、お腹が一杯になって眠くなった目をこすりながらも、御膳を下げに来たおじいさんに訊いてみる。
「なんで今日は、誰も宿泊できないんですか?」
こんなに紅葉が綺麗な秋の休日なのに、空室にしている理由が分からない。露天風呂も素敵で快適だったし、開けていれば満室になるほどお客が来るに違いない。
するとおじいさんは布団を敷きながら、おもむろに語り始めた。
「ちょうど五年前の今日だったんです。忘れもしない平成二十二年、十月三十一日のことでした」
平成二十二年? 五年前だって!?
「ここの上流で土砂崩れが発生して、何人もの方が亡くなられたのは」
ま、まさかそんなことって……。
おじいさんの話は驚きで、おまけにどうしようもないほど急激な眠気に襲われていた俺は正常な判断ができなくなった。
「あれから毎年、この日は私一人で宿を開けているんです」
そうか、そういうことだったのか……。
俺はようやく真相に気付く。おじいさんの言う五年前の今日という日に何が起きたのか。
俺は朦朧とする頭で、親切にしてくれたおじいさんにお礼を述べる。
「今日は本当に、本当にありがとうございました……」
ここはあの世と現世が交差する場所。
宿の主人のおじいさんは、俺のために精一杯のおもてなしをしてくれた。
俺は倒れるように布団に横たわり、おじいさんに心から感謝しながら目を閉じた――
目を覚ますとそこは川原だった。
温泉宿の土台らしきコンクリートの上に、俺は横たわっていた。
――秋山の湯。
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